私が小学生だったころ(もう44年も前!)にも図工という科目があったが、今も図工ってあるのね。教育方法ももっと現代に合わせてアレンジすべきだと言うのに、変わらないってのは面白い。100年後も図工ってあるのだろうか。
この図工って科目は苦手だった。国語算数理科社会・・おぼえればいいんでしょ?って科目は得意だったけど、図工はそれが通用しない。
絵を描け、と。もしくは工作。ただ、オリジナルを作らなければならず、教科書の方法をなぞらえればいいというものではない。
だからと言って、教師から指導を承るようなカリキュラムじゃない。一応の説明があったら、あと〇時間で完成させなさい、はい始め、みたいな感じだった。
そんなのできるわけないやん。と、その時も思ったが今でも思う。でも不思議なもので出来る同級生はいる。なんでできたりできなかったりするんだろ。どちらも教わっていないのに。
図工だけではなく、音楽や体育なども思ったが、なぜにやらせてみてできた人の成績がいい、みたいなスタイルなんだろうか。ゼロベースで教えて、一個一個身に付けさせて、その結果を競うような教科なら、攻略したのに。
攻略を許さない、野生の才能を拾うような姿勢に見えたのがそういった科目だ。教科書も薄っぺらい。How Toではなく、前提知識しか書いていなかった。
というのは、前提の通り40年前の話だから、今の学校では違うのかもしれない。もっと図工を基礎から学べたら。私でも絵が描けるようになったり、工作ができるようになったりするのかな。
もしできるとすれば、それを学校でやればいい。
この発想は、国語・算数(数学)・理科・社会・英語と言った主要教科については万能感があったのに、図工(美術)・音楽・体育と言った副教科では、できる人に対して手も足も出なかった記憶から来ている。
結構、自分なりに作品の完成に対して時間と気合を入れて作り込むんだけど、できた結果を見ると、できた人のすごさと、じぶんのできなさを痛感してた。毎回。
あの、できた人は、どんなトリックを使ってできたんだろうか。「センス」と言ってしまえば終わるもの?。学校教育って、センスを測る機会を与え、自己評価して人より優れてるなら専門の学校に行きなさい、という儀式だったのか。
主要教科なんて教科書理解すれば満点に近づけるのに、どうにも、無理ゲー感が否めない副教科。
ま、人によっては副教科に救われて、専門の道に行って幸せになった人もいるだろうから無意味ではないにしても。センスがなかった私には失敗経験にしかならなかったな。