調子に乗って失敗したことは、数えきれないほどある。いや数えない。いちいち恥ずかしい。調子に乗ったら失敗するってわかっているのに、何であんなに調子に乗ったのだろうか。
今は調子には乗らぬ。あっ、と思って調子に乗ったことに気が付いたら、即座に辞めることにしている。調子に乗った瞬間に失敗ロードが始まるのだ。
調子に乗る直前には、必ず「小さな成功」がある。何か再現性をつかんだと勘違いするのだ。その勘違いをよせばいいのに、何度も何度も繰り返し、「おかしい、同じように成功しない。あの出来事は何だったんだ」となり、最後にまとめて失敗に気が付くのである。偶然の産物を、都合のいいように解釈し、何らかの法則のように捉えてしまう現象。これが最も危険だ。
成功を約束するプロセス、ほとんどが錯覚。仮説段階では疑わしいとしておき、何度か実験する。実験段階では大きなトライは避け、小規模の実験に留める。見込みがある、まで育てるのには時間をかける。ここを省いて急にリスクを取りだすと、大きな損を出すことが起こりえる。
人間関係でも、何だか良好で自己肯定感がすごく上がったところで、だいたいやらかす。これぐらいやっても、人気者の私だから大丈夫だろうと思ってしまい、実際のところ「勘違い」であり周辺が手のひらを返してしまう。好事魔多しと言う言葉は良い。そうなのである。魔は自分自身が引き寄せていると言っていい。
調子に乗ることがプラスに出る場合もある。気分も良くポジティブで、その前向きさは魅力にもなる。なるが、うまく行かなくなった時に急に止まれない。あれおかしいな、と思ったときには、何度かもう、アクセルを踏み込んでしまっている。止まれない。スピードの出し過ぎ。
だから、もはや「調子に乗る」は人間に取って害の方が大きいのである。察知する能力は、失敗回数が多いほど、上がる。したがって私などはものすごく調子に乗らないことが身に染みている。どんだけ失敗したのか、というのは恥ずかしくて人に言えない。失敗の数だけ成長するとは言うが、失敗が手痛すぎてボロボロになることだって人間はあるので、体力・精神力とよく相談して、やさしく失敗することだ。
調子に乗っている人に対して私は冷ややかだし、自分の結果がいいからって調子にものらない。何だか冷めたように見えるかもしれないが、そうなった自分の歴史を振り返ると、ああ、あれをやらなければもっと・・という記憶が次々と降りてくるのである。