「嫌いだから」が理由になるのか

世の中

「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」。こんな一文で始まるエッセーが体育専門誌に掲載されたことが、SNSで話題となった。寄稿したのは、音楽クリエイターのヒャダインさん。授業の残酷さや教育者の無理解を厳しくとがめる文章が、なぜ体育教員向けの専門誌に載ったのか。出版社やヒャダインさん、そして体育教育者側に、それぞれの思いを取材した。(時事ドットコム取材班キャップ 太田宇律)

私も体育は苦手だったのでお気持ちはわかりますが、違和感を感じているので書きます。

最近の教育は、不快を徹底的に省こうとしているように思います。競争的な状況がなかったようにしそれぞれの個性を伸ばす。表現はいいのですが、社会に出てみたらどうでしょう。完全なる競争社会が待っていて、待遇面も含めてかなり格差が見えます。人は人、自分は自分なんて言って心が守られるような甘い社会じゃないと思います。そもそも学校だって、自然と能力で振り分けられている矛盾を誰もが知っています。

特に最近は強いストレス状況に弱い人が増えているように思われ、ああ、私たちの世代とは違うんだと思うシーンが増えています。強いストレス状況が予見される場合には、マネージャーが事前に取り除かないと危ないわけです。マネージャー自身のストレスは差し置いて、です。

学校生活でもすごく嫌な思いもしましたし嫌いな人もいましたし、辛い思いもありました。それはそれで私の人生であると思っていたし、社会はそういうものだと思っていたし、善悪など言ったところで受け入れるしかありませんでした。今はSNSなどで声が挙げられやすいこともあり、どんどん人のストレスになりそうなものは省かれて行っていますが、どんどん積み重なったら一体、どうやってストレス耐性を身に着ける場面があるんだろう、なんて思ってしまいます。

学校教育を低ストレスにしたとして、社会は高ストレスのまま。では低ストレスの社会になって行くんでしょうか。私はそうは思いません。めちゃくちゃ競争社会だし序列を付けるし、能力のある人はいい思いをするし、能力のない人は最低限の待遇しかない。それをストレスだとされてもどうにも変えようがないでしょう。

「大人になったら関係ないぞ」と文中にありますが、本当に大人になったら関係なく競争に入れられるのです。

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