田舎から出られない、と言う状態はすごくよくわかる。というのも私は「田舎から出られた人」だからだ。親が田舎になんか居ちゃいけない、仕事に困るし、あってもろくな仕事もない。都会に出なさい。ということで都会の高校・大学に進みそのまま都会に居ついた経験を持つ。
田舎には、基本的に親戚連中が居て、その中で助け合って生きている。単純な会社員であればそこまでしがらみはないが、事業があったり資産があったりすると全く事情は変わる。地域における責任や、矜持のようなものが発生し、親戚であることは権利でもある。
仮に大学に進み都会に出るとしても、地元に帰ることが前提となる。卒業したら稼業を継ぐのだ。家業を継ぐのは長男だけでしょ・・と想像する人は多いが、一人で事業はできないし、みんな都会に出て行ったら地域が弱くなる。だから、極力田舎に引き戻そうとする。
地元で事業をして資産を持つ・・なんてほんの一部でしょ、と考える都会人は多いと思うが、案外違う。地元のつながりは恐ろしく太い。どこの誰が何したかまでくまなく情報が伝播するようになっていて、プライバシーもへったくりもない。そもそも家の玄関がいつも開いているのである。家で閉じる文化は都会のものだ。私が田舎に住んでいたころは、勝手に祖母の友達が家に上がってきて入って来たこともあったものだ。最近は大分都会化したとは思うが根っこはそういう場所である。そして、田舎にはなぜか裕福そうな家とか、どうやって儲けているのかわからないが立派な店構えをしている店舗とか、業者とか、色々あって、全体としてサプライチェーンを構成している。
もし、そんな田舎でガッチリ組み込まれた世界で、田舎から出る!帰ってこない!と宣言することは何を示すか考えて欲しい。親どころか親類の危機にまで至ったりする。いやいや考え方が古いでしょ、と感じるのは都会人。むしろ資産がここにあるのになぜそれを放り出して都会に行くのか、これまで助けた恩返しどころか仇で返すのか。そういうことになる。
もう心の底から、縁を切りたい。親子や親類のつながりも捨てて、独立して過ごしたいと言う人が、駆け落ちのように都会に行くのは自由であると思う。自由なのだが、捨てるものがあまりにも大きい場合、選ばない人も多いだろう。選択しそのものの現実性がない。田舎も親類も愛している、のなら、離れないだろう。
一方で、田舎に勝ち組しか残らないようになると、田舎の負け組はどんどん都会に行く。そうやって田舎はどんどん縮小してきた。田舎が都会になって行くようなシナリオが存在しないと、全ての田舎は論理的には無くなる。最後に田舎はどうなるかについては、田舎を捨てた私がとても気になっているところで、たまに私の田舎の自治体の情報をWebで見ると、私の中学の時の生徒会長が市会議員をしていたりしてもやもやする。案外、田舎はしぶといな、って思ってるよ。